石丸博は、令和元年12月16日に満74歳を一期として永眠いたしました。
ごあいさつ
令和二年四月
長男 石丸太郎
周りの人を幸せにしようと生きてきたが、自分が一番幸せな人生だったようだ。
まずは、令和元年十二月十六日に七十四歳を一期として永眠した父のために御多忙中にも拘らず仮通夜・通夜・社葬に御会葬いただき、御鄭重なる御供花、御香料ならびに数々の御弔辞、御弔電を賜りまして誠にありがとうございました。
亡くなった直後は、事あるごとに父を思い出し涙しておりましたが、それ以上にやらなければならないことがたくさんあって悲しむ暇もなく二月の満中陰の法要、そして百か日に合わせて三月に納骨を済ませました。
若干の落ち着きを取り戻しましたので、改めてお世話になった全ての方々へ御礼の言葉を申し述べます。
病に倒れ病床に臥した父が昨年使用していた手帳には隙間もないほどに様々な事が書かれておりました。
亡くなる十八日前の十一月二十八日の父の誕生日の日、その日は、毎年父のために開催していただいている誕生会がある日で、入院中であったため残念ながら出席が叶いませんでした。親友である橋口組の平岡会長に誕生ケーキを病室にご持参いただき、誕生会も電話のみでの参加となりました。
「周りの人を幸せにしようと生きてきたが、自分が一番幸せな人生だったようだ。」と書いてありました。
平成7年に佐賀県議会議員に初当選させて頂き人生の三分の一である二十四年間、佐賀県と武雄市の発展のために過ごした佐賀県議会。
「無投票で当選させていただいたのに「何もせず」に死んでしまうのが心残りであるし本当に申し訳ない」と議会に出席したくても出席が出来ないやるせなさとも戦っていたようです。
本人も税金泥棒とは呼ばれるのは本意ではないし、当選した後も辞職することを何度か考えていました。しかし、最終的には「自分ひとりの力で議席を得たわけではない。自分の周りにいる支援者のおかげで今がある。議員が現職中に死ねば戦死だ。本望ではないか。」と最後の最後まで奇跡を信じて県政のために尽力したいと心から願い病と戦っていたと思います。
亡くなった後にさまざまな場面で「非常にお世話になった。惜しい人を亡くした。」と有り難いお言葉を頂戴し、父の七十四年の人生、私自身は四十年間しか一緒にいることは出来ませんでしたし、ほとんど家にいなかった父でしたので、正直どんな活動をしているのだろうという気持ちでしたが、暖かいお言葉を頂戴する度に父の偉大さを実感しております。
亡くなる数日前に、酸素マスクをしながらもまだ話が出来る状態で私に遺した最後の言葉。「思い通りにはいかないかもしれないが、従業員の皆様の幸せを第一にこれから生きていきなさい。」というものでした。これはもちろんこれから会社を背負っていかなければならない息子に対しての父の助言でありお願いであったと思いますが、私はその言葉の中に、父がそうであったように「これから出会うすべての人々を幸せにしなさい。」という意味が含まれていると解釈を致しました。
父が生前お世話になった全ての皆様、そして、父がこれから出会うはずであった全ての皆様の幸せをお祈りし、誇りである父の息子として恥じない生き方をしなければならない。これから家族も親族も父の分まで頑張っていかなければなりません。
父が晩年よく口ずさんでいた「散る桜残る桜も散る桜」。
今どんなに美しく咲いている桜でもいつかは必ず散る。そのことを心得て生きていった結果が、皆様を愛し皆様に愛された父の生涯であったと思います。
父の生前中は皆さまより格別なご厚情を賜りまして、父になり代わり、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
また、亡くなった後も御心を寄せていただいている事に改めて感謝を申し上げお礼の挨拶にかえさせていただきます。
このホームページは世界で一つのURLでありますので父がこれまで歩んできた政治活動の証として残します。また、父が多くの方々とお話をさせて頂いた後援会事務所は亡くなる前と変わらない形でそのまま残しております。お近くにお越しの際は是非お立ち寄り下さい。
末筆になりますが、昨今のコロナ禍の影響で皆様におかれましても仕事の面、家庭の面で不自由な時を過ごされているかと思います。全く先が見えない大きな不安の中だとは思いますが、自分自身を、そして愛する家族を守るためにもこのウイルスとの闘いに打ち勝ち、共に手を携えてこの試練を乗り越えましょう。
令和二年四月
長男 石丸太郎
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お礼のメッセージ
叙勲・叙位ならびに父が手帳に書き記した言葉。
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